子供に見せては困るような記事がたくさんある。

いじめている現場を見つけた時

教育の現状をみるとき
勉強ができても自分勝手な人間になりがちです

こうしたやりとりのなかで、子どもの書く習慣を引き出し、書くことを好きにさせるのですこの子どものときの書き込みが、けじめをつける意志力を持つ人間に育てるのです書いていないと、わがままになるよと言っていたのは、私が小学生のときの担任の先生です。その言葉が耳にこびりついて離れません。
ダンテ、ボードレール、芥川、私と言ったのは太宰治です。何を言おうとしたかはわかりません。しかし、これらの天才はみな、自ら生命を絶っています。彼らははたして、子どものときに思いっきり書き込んでいたのかどうか疑問だ、と私は思っています。
しつけが実を結んでくれる

子どもからこんなひとことがあるかもしれません。

o自己PRのできる子どもは、能力も高い一九九六年夏、アトランタでスポーツの国際祭典、オリンピックが開催されました。アトランタといえば、マーガレット·ミッチェル原作の小説、というより、ビビアン·リとクラーク·ゲーブル主演の映画で有名な風と共に去りぬの舞台となったところですこの物語は、今から百年以上も前、南北戦争時代のアメリカ南部に生まれたひとりの農
園主の娘の半生を描いたものですが、いまだに多くの人に親しまれ、すでに亡くなった作者に代わって、第三者により風と共に去りぬ·第二部が書かれ、出版されたほどです。

父親の権威はそれでめちゃめちゃになった。

その人気の鍵は、何といっても主人公スカーレット·オハラの魅力でしょう。気位が高く、鼻っ柱が強く、自己主張し、欲しいものは、従姉妹メラニーの婚約者でさえ自分のものにしようとする彼女は、いつも控え目で思慮深く受容的なメラニーと対極的に描かれており、強い性格が災いして、最愛の人を失います。そして生家も没落するのですが、焦土と化したタラの大地に、復興のため、ひとり敢然と立ち上がるエンディングが印象的ですここには、ふたりの女性の生き方が対照的に描かれていますが、スカーレットのように自己主張する強い女性がアメリカの伝統的な女性像かと思ったら、意外にそうではないことが最近になってわかってきました。
勉強しながらその先の進路

中学生のときに爆発してよかったのであって

コレット·ダウリングのシンデレラ·コンプレックスによると、女の子はそれほど自立を促されず、女の子ということで過剰に保護されるため、結局は自立できない依存的な生き方を選ぶことになるといいます。よって、長い間アメリカでも、メラニーのようなむしろ受容的な女性が、親にも夫にも、そして女性自身にさえも理想のように思われてきたようです。
はっきりと自己主張し、男性と互角にものを言い仕事をする、自立した女性がふえてきたのは、ベティ·フリーダンが女性解放を唱え、フェミニズム旋風がアメリカ全土を席巻した、数十年前ごろからのことなのです。

学校は集団的に糞づまりをこしらえる。
子どももしつこくは言いません。

中学校と進むほど

いじめをしていると耳もともとアメリカは個人主義の国で、自分の考えをはっきり言わないのは、言えない.あるいはしっかりした考えがないと見なされ、自己PRができるかどうか、プレゼンテション能力があるかどうかが、個人の評価に大きくかかわってくる社会です。このへんが和を重んじ、横並びの協調性が評価される日本社会とは大きく違う点です。
日本では、自分を宣伝するということは何だかいやらしいと、まだまだ市民権は得ていません。しかし、時代は確実に変わってきており、社会もニーズに合わせて能力を発揮できる人材を必要とするようになってきています。
教育熱が高まっている

育てることができないのです。

いい意味でも悪い意味でも、アメリカ型社会になってきているのです。
アメリカでは、女の子が自分の結婚のことで、相手に自分を上手に売り込むことを考えるといいます。決していやらしくなく、品位をもって。そうした自己PRのできる人間は能力が高いと見なされます。
学齢前の子どもたちの調査で、知能の発達とほかの能力との関連を調べたものがアメリカにあります。その調査結果によると、六歳児でIQの上昇が見込まれる子どもは、主張がはっきりしていて自立心があり、ほかの子どもたちに対して力を持つようになるが、1Qの上昇が見込めないとされた子どもは、受動的で、内気で、依存的だといいます。
日本でもこれからは、人と心が通じ合える、人の気持ちがよくわかるという、コミュニケーション能力、共感能力を土台に、パフォーマンスも含めた自己表現のできる子ども自分自身を上手にPRできるプレゼンテーション能力を備えた子どもが求められてくることは間違いありません。

学校の責任にすることができる。

しつけていいかわからないと嘆く背後

子供にいい番組でないとご判断されたとき
父親に反発しっつ

氏はこの話を発端にして、独自の教育論を述べました森氏は、教育こそ、指導要領に検定教科書と、規制の世界であり、教科書批判も、ともするとよい教科書を与えましょう運動になって、教科書依存体質を強化しかねないのが困ると言います
いい教科書でなくても、教科書を批判できる力をつけることが大事なはずである。戦時中だって、リベラルな学校は、時局がら言えなかったり書けなかったりのぶんは、自分たちで勝手にさがしてきた本で補ったものだそして、いじめ問題にも言及し「自由と寛容がないから、いじめは起こるのであって、いじめ文化の元凶だと考えている」
みんな仲間というのは、むしろと語っています。
おっしゃることに一理あると思います。子どもがけんかをしていると、やめなさい。みんな仲間でしょうと言う親はけっこう多いようです。しかし、仲間だからこそ、悪いところ、変わったところを直してやろうというのが、いじめの発端になっているという事実もあるでしょう。いじめているという感覚はないのですから、いじめは跡を絶たないことになります。
母さんも一緒にお詫びしてあげる

子どもの考える力や好奇心の芽

仲間であること、つまり同じであること異質でないことがいいことだという考え方が、いじめの根底にあるのです。
要するに、教師も親も社会も、自分の行動に責任が持てないから、規制されることを求めてしまうのです。決まった指導要領や教科書の枠から抜け出せない教師たちがいますいい学校に入るのがいちばん安心だからと、子どものお尻を叩く親がいます。そして、学閥や愛社精神で、滅私奉公を求める企業や社会があります息づまるような規制社会のなかで、子どもたちは、「おまえの点数はこのぐらいだから高校はここ、大学はこのへん、会社はまあこの程度には入れるかな」といった具合に、他人に決められた人生を歩んでしまいます。生活レベルまで決まってしまうのですから、恐
ろしいことですとこれではまるで、一億総奴隷化ではありませんか。

子どもがいるとすると一人はともすれば親

はい、はいと言われるままに屠殺場に引かれていく家畜のようです。わが子を、このような隷属的で無気力な人間にしないために、母親の役割は重大です。
「自分は、自己の努力とセンスと持ち味で、幸せや成功を勝ちとってみせる」
というような、たくましく勇敢な人間を育てなければいけないと思います。そのため母親は、従来の価値観にとらわれることなく、人の見方ではなく、自分の目と価値観と責任と感性で、わが子を見直してみてほしいのです。
前出の森氏はまた、こうも言います「性格にしろ、読んで学ぶ本にしろ、自己責任で選べたのは、昔のエリートの話だという考え方がある。たしかに自己責任というのは、エリートの定義のようなものだ。しかし、日本の経済的·文化的条件なら、ほとんどの人がエリートになってよい。そうならないのは規制に依存して、自己責任をとらぬ体質だけのことだろう」
この困った体質を改善する薬は、母親のもとにあるのではないでしょうか。
たとえば、多くの母親は、勉強に最高の価値を置いて、それ以外のものは子どもから遠ざけようとする傾向があります。しかし、そのような価値観をひっくり返すことで、たとえば子どもが夢中になる各種のゲームにも、自己責任を養う要素があることを知るでしょ子どもが熱中しているゲームを、親も一度やってみるといいでしょう。
子どもといっしょにいる時間が長い場合

子どもについて検討してみます

そのなかには自己責任が原則で、自助努力で生きるのだというストーリーが息づいていることに気づくはずです。いけない、いけないと言うから、子どもは何時間もの間、ゲーム機にしがみつきます。一時間ぐらいならやったほうがいいよと言えば、子どもは一時間でやめるものなのです。
過ぎる過ちに通じる過ぎたるは及ばざるがごとし
人が活動するあらゆる局面で、この格言は言いえて妙と感じることが多いのですが、子育てにおいても例外ではありません。親は子どものために一生懸命努力しますが、ついやリすぎて、かえって子どもをダメにすることが意外に多いのです子どもをダメにする六つの条件があります。それは、過保護、過放任、過支配、過服従過期待の五つのと、気分本位です。

子どもに培いたい。
学校を休む

勉強ができることも大事かもしれないけれど

学校も含めて人間の子どもは、生物学的に1年早く生まれると言ったのはポルトマンですが、たしかに生まれ落ちてから歩きはじめるまでの約一年の間、ほぼ全面的な保護、擁護を必要とします。母親は、授乳から排泄物の処理、お風呂、睡眠など、四六時中赤ちゃんのそばにっいて世話し、自分の寝る間も惜しんで献身的に面倒をみなければなりません。
そして子どもが成長するにつれて少しずつ手を離していき、子どもが自分で食事をとり身辺の処理ができるようにしつけていきます。
いじめっ子相手にけんかすることはおろかしい

勉強はできるほうではなかったけれど

子どもの発達に応じて、母子愛着から母子分離へと上手にひとり立ちできるよう、手助けしてやらなければならないのです手をかけながら放していく、この保護と放任の兼ね合いがむずかしいのです。思いき手をかけすぎて、子どもがひとりでは何もできなくしてしまうとか、手を離したら離しつばなし、という親がいます。また一方では、これをとり違えて、まだまだ保護が必要なのに放任してしまう親もいます。あるいは、親の手から離れて自立していかなければならない時期なのに、親のほうが子どもから離れられず、手をかけすぎる、という逆転現象もよ
く見られます。
まいますやりすぎや、時期をとり違えた過保護,過放任は、子どもをダメにしてし次に母親が間違うのは、子どもが自分で判断して決めなくてはならないところを、親が指図する過支配最近では、子どもの学校どころか、就職、結婚まで親が決めてしまうこともあるようです。