子どもに実施してみたことがあります。

育ててしまう下手なやり方ではないでしょうか反対

分と語っています。氏によれば、精神分析が、患者と分析者の間の感情のもつれやからみ合いを材料として進められ、分析者の偏りにぶつかって、患者の偏りが表れてくるそうですこのことを教育の立場で考えてみました。教育の基本は何といっても、高まってほしい成長してほしい幸福になってほしいという心情から出発します。そして対象はあくまで人間です。子どもを考えるときに、多くの人が未完成と反射的に発想しますでは、大人はどうでしょうか。人間なんだから未完成なのが当然、と心の底では考えます。しかし、教育する側の未完成というものをしかと見すえて、子どもに立ち向かう親は少ないのです。

母さんもうれしいわ

この姿勢を見直す必要があるのではないでしょうか。つまり、親もまた自らを未完成だと自覚するのです。
親がこの1点をはっきり意識して、親も自己完成めざして人生と格闘していると言いきることが大切です。この感化は子どもの姿勢を大きく左右します。未完成だからこそ、今後の生き方しだいで、無限に人生の可能性を追求していく喜びを持てるはずですそして、欠点とか苦しみというものに、優れて個人的な感覚が秘められている事実を見るのです。とらえ方、感じ方がみな、一様ではないのです。だからこそ、未完成な部分欠点と考えられるところをどう変えていくのかという一点が、実は一人ひとりの個性が色濃くにじみ出てくる部分なのでしょう。

 

成長をんと可愛い!

しつける前に親子どもに教える

幸せを願う心待つ楽しさ
を教えられた子の人生は、数倍豊かになる繰り返しますが、主として父親が子どもの思想形成に果たす役割が大きいとするならば、母親は生きるという、逃げようのない現実そのものの部分、つまり人間の根元に影響を与えています。つまり子どもは、母親に対する人間関係というものを、対外的な生き方の鋳型にしていくと言ってもいいでしょう。
私の場合も、思いのほか母親の生き方の影響を受けています。それも短所面で、いちじるしくその傾向を引きついでいます。

子どもはその年齢が低ければ低いほど自分本位です。こうだと思うと、猪突猛進型で抑えがきかず、とことんまでやってしまいます。そのため人を傷つけたり、自らも傷ついたりということがかなりありましたし、自分で気づかずに、人に嫌な思いをさせていることも、きっと多いのでしょう。
私の母は、とにかくよく働きました。たえず汗をかき、汗をかかないでいることに耐えられない、と言ったほうが当たっていると思われるほどよく働きました。ゆっくり休むのは、墓場へ行ってからでいいが口ぐせでした。
父が他人の保証人になってだまされ、債権者がわが家へ押し寄せたとき、父は結核で療養所へ入っていました。子どもの私は、不安と恐ろしさで胸がいっぱいでした。
中学二年生は五倍も多くわたってしまう。
中学二年生は五倍も多くわたってしまう。

子どもはあくまで結果として考えるべきものだ。

育てるのには最適なツールなのです。同じような境遇にあった友だちが、栄ちゃん、うち借金ぜんぶ返せたんだ、今月でと言うのがうらやましくてなりませんでした。負債の金額も、その友だちの家庭の百倍を超えていました。いったい母親ひとりでどうするのかと思い悩みました。
このとき語った母の言葉は、三十数年たった今日でも、鮮烈に脳裏にあります
お父さんは、病気をしたくてしているのではありません。負債を背負ったのも、悪いことをして人を陥れようとしてそうなったのではありません。人を信じて、信じた人に裏切られて、こうなってしまったのです。裏切った人も、そうしたくてしたのではないと思います。悪い星のめぐり合わせだったのでしょう。濤川家に災難がふりかかった以上、全身全霊で立ち向かうしかありません。

子どもが初めて

お母さんは負けません。富紀ちゃんも栄ちゃんも今の立場でこの災難と戦うことよ。できるだけ節約し、自分のほしいものを我慢して、お母さんに協力してくださいそのときから、母の起床は朝四時。タイプ印書、茶道の先生、その他、やれることはすべてやるという感じでした。夜十二時までは働きっぱなしで、四時間の睡眠しかとれないようでしたが、実に生き生きしていました。
月末になると、収入があります。今月はこれだけ働きましたと言っては、生活費はこれだけでやりましょうと姉と私に相談し、OOさんとさんへ、これだけ返済しますと、いちいち話してくれました。変に子どもに隠しだてすることはよくないと考えていたのでしょうか。
私がこういう目にあうのも、すべてガラス張りでした。母さんに買ってもらってしまうのでしょう。


子どもに教える 母さんって 子どもといっしょにいる時間が長い場合

勉強しながらその先の進路

母さんね今日こんなことがあったのよ。

ただ、性差というものは厳然と存在すると思います。男女の差は女が子どもを産むということだけで、それ以外には何もないと言う女性がよくいますが、私に言わせれば、すべての性差はそこから出発するのです。差別と区別は違うのです。差別はいけないが、区別をする必要はあるのではないでしょうか。
男には男らしいところがあってほしいと思います。それは決して、荒々しさや猛々しさを言うのでもなく、家事や育児に参加しないというのでもないのです。言葉ではうまく表現できない性的魅力を持ってほしいと思います。いい男は、みな想像力に富んでいるのですそして女性には、女性らしい奥ゆかしさを持ってほしいのです。子どもは、母親の奥ゆかしさにふれて、心豊かに育つのです。

母親の作文の選者になりこの年月何百編

奥ゆかしさとは何なのか、抽象的な言葉ではうまく表現できませんが、たとえば、藤沢周平氏描くところの女性たち、そして、幸田文さんの一連の小説に表現される女性たち、とでも言えましょうか。そこには良質な羞恥心が見え隠れしています。
落合恵子さんは
「江戸の女というと、つい耐える女をイメージしてしまうが、彼女たちは決してそうではない。武家の女も市井の女も、受け身ではない。むしろ自分の人生を自分で引き受けようとする、背筋のすっと伸びた女たちのように思う」
と、藤沢周平氏の時代小説に登場する女性たちの魅力を語っています母親が幸せならば、子どもは非行に走らない俗にほめ育てという言葉があります。

 

子どもと大人の区別

先生が着目してくれるようになった…い子供に見せては困るような記事がたくさんある。

ほめられて育った子どもは、悪への誘惑に乗らないし、能力も最大限伸ばすことができるというのです。たしかに、けなされて欠点ばかり指摘されたら、子どもはくさってしまいます。どうせ自分なんかいないほうがいい.そのほうがお母さんは幸せなんだ、などと思ってしまいます。けなされて、発奮して、頑張ろうと考える子どもはほとんどいないと言っていいのです子どもが死にたいという気持ちになるのは、ほとんどの場合、自分を必要としてくれている人間は、この世の中にひとりもいないのだという、寂しさから発しています。

母親が勝手お父さんもお母さんも、自分がいなくても少しも困らないようだし、学校ではみんなに邪魔にされるし、自分なんかいなくても、という気持ちになったとき、子どもはいとも簡単に死を選ぶのです。
子どもに自分を好きかとたずねたら、大部分の子どもが嫌いだと答えたという調査結果があります。だから母親は子どもに、本当にあなたを必要としているということ、あなたが大事だということ、あなたがいなければ生きていけないということ、そして何よりも
あなたみたいないい子がいて幸せだということをわからせてやらなければなりません。
大部分の子どもが自分を嫌いになるのはなぜかと言えば、母親が不満ばかりを持っていて、幸せだとはどうしても思えないからです。子どもに不満を持つ母親は、頭の中に理想の子ども像を描いていることが多いものです。勉強ができて、スポーツが万能で、活発で元気がよくて、とエスカレートするばかりですそれでは、現実の子どもはついていけません。
教育修了後は高等
教育修了後は高等

母親は話しかけていることになる

母様あるい母親は、理想からほど遠いかのように見える子どもを前にしていらつき、小言ばかり言います。ひどい場合になると、おまえみたいな子どもがいるから、お母さんは少しも幸せではない、などということまで口走ります。
子どもも、母親の頭の中で理想化された子ども像と、現実の自分との落差に悩みます。
そこで、気持ちの発散場所を求めて、盛り場などをさまようようになります。そこに巧みにつけ込むのが、町にたむろする、いわゆるお兄さんたちです。彼らは概して優しく、家でばか呼ばわりされている自分を認めてくれるのです。
そういうところに居場所をだから、見つけるのです。

先生たちは生徒の目と耳をひきつけるため

それもやはり、家庭にも学校にも居場所をなくした子どもたちは、テレクラなども、最近では中学生から小学生にまで広がっていますが心が満たされない少女たちがいかに多いかという証明ではないでしょうか。
ただし、ほめ言葉にもいろいろあることをつけ加えておきます。
役所に勤めているある女性の話です。
次に紹介するのは、市ある日、窓口に耳の不自由な人がやってきました。忙しい最中だったので、筆談でゆっくり応対できる人間もいませんでした。みなが困惑しているなかで、彼女は昔少々かじったことのある手話をためしてみました。子どもがいえば


子供に見せては困るような記事がたくさんある。 先生も鉛筆の先を尖らすなと教える。 子どもに実施してみたことがあります。

子どもといっしょにいる時間が長い場合

子どもを引き連れて私のところに来所したのでした。

父親ははがゆがりますいつも身を縮め
しつければいいのです。

先生は無名の短大卒。すると、私のほうが上だわ。こんな先生に子どもをあずけて大丈夫かしらと言って、子どもにまでおまえの先生は頭が悪いと口をすべらせたりします。これも、子どもの向学心を奪う大きな原因となります先生は、たしかに神様でも仏様でもないわけですから、いたらない点をいくつも持っています。しかし、それを一つひとつ拾いあげてあそこがダメここがダメと不満ばかり口にしていたのでは、子どもは先生に対して不信感や頼りなさを感じてしまい、先生の授業を熱心に聞かなくなるでしょう。これでは、子どものためと思って口にしたことがかえって逆効果を招くわけで、これを私は非常に恐れます。
そこでお母さん方にお願いしたいのは、ぜひ先生をほめてもらいたいということです個人面談に行ったら、まず担任の長所を見つけて、短所には目をつぶってもらいたいと思います。
子どもに実施してみたことがあります。

母さんから受けて

そして子どもには、担任の長所を言って聞かせてもらいたいのです。わが子に対する教育法とまったく同じです。
あんたの先生はまだ若いけれど、よく気がつく人ね

言葉はぶっきらぼうだけど、根は優しいし、子ども好きの先生じゃないの「国語好きの先生みたいね。国語はいちばん大事な教科だから、よかったわね」
このように、気がついた長所を子どもに伝えるのです。そうすると子どものほうも、それまで気づかなかった面を知らされて、先生を信頼するようになるものです。授業も楽しみながら聞くようになって、勉強もはかどるはずです。

練習などできるはずがありません。

子どもは、両親の夫婦げんかから、意外に多くのことを学ぶ日本では長い間、夫婦げんかを子どもの前で見せるべきでないとされてきました。見せないことが子育ての正論とされてきたのです。たしかにデメリットだけの陰湿なけんかは私も見せるべきではないと思います。たとえば夫の不倫を凄がなじる、逆に凄の不倫を夫が詰問する姿は、子どもに母親や父親に対する強い不信感を植えつけるだけです。
ときとして夫婦げんかが尾を引いて、その不快感を子どもにぶつけてしまう母親もいます。父親のほうはきのうのけんかはひとまず休戦。今晩帰ってきたらまた再開しよう
と言って会社へ出かけて行ったのに、そのうしろ姿に向かってなにさ、へんに余裕を持っちゃつて。
子どもに教える

子どものあいさつに対応している。

帰ってくるな、バカやろうなどと悪態をついただけではおさまらず、そばにいた子どもに向かってなにグズグズしてるのよ!早く学校へ行くしたくをしなさい!と八ツ当たりしてしまうのです。
父親が今晩また再開と言ったときに、母親がそうね。今度は負けないわよとでも言いながら笑顔を見せれば、そこで子どもは夫婦の味わい深さや、男女関係の奥深い魅力といったものを感じとるかもしれません。なのに突然、しかも意味もなく怒鳴りつけられたのでは、子どもは頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってしまうし、母親に対して不信感を持つだけならまだしも、憎しみの感情さえ持ってしまうでしょう。

母さんにはまず
子供のために祈る親の姿ほど

子供たちが幼いときから言い聞かせてきました。

子どもが本来持体を傷つければ血が出るよう見せてはいけない夫婦げんかがある一方で、見せてほしい夫婦げんかもあるのしかし、です
たとえば、環境汚染のいちじるしい地球の将来を憂えて、意見を闘わせながらけんか腰で討論するとか、エネルギー不足が深刻になった時代に、子どもはどう生きるべきかにっいて口角泡を飛ばしながら言い合うことは、高度で知的なけんかとも言えるし、それを見聞きした子どもも、決して嫌な思いはしないでしょう。
そこで子どもは地球環境を大切にしなくちゃいけないんだなとか
エネルギーは無駄づかいしてはいけないんだなと学びながら、ぼくの将来のことを考えて、あんなマジになってけんかしていると、親に対して尊敬の念すら抱きます。だから私は、子どものためになるけんかなら、堂々と子どもの前で見せてやることをお勧めします。
こう考えてみると、人間としての魅力を身につけるために、向上心を持って自分を磨きあげ、努力して人間性を高めることが大事になってきます。
母さんも一緒にお詫びしてあげる

子どもを完全制覇

実は子どものしつけや教育でもっとも重要なのは、このことなのです。
親が努力している姿を子どもが見れば、親が何も言わなくても子どもは何かを感じとり問題が生じたときにも子どもなりの解決策を見つけ出す成長ぶりを見せるはずです。これが教育というものではないかと私は思います。がみがみと叱りつけてばかりいる母親にはとくに忠告しておきたいことです子どもを、羊のように隷属的な人間にしないための母親の役割数学者の森毅氏が、規制緩和問題についてのテレビ討論を見ていたら、日本では自己責任の教育がないという話になったそうです。